衣・食・住について

農家の女性一日について
午前 5時  起床 朝ご飯(おかゆ)をへっついさんで炊く。朝ご飯の用意ができたら、昼ご飯の用意をする。燃やす燃料は、麦わら・わら・豆の茎など燃えた後の灰は、畑にまいたハッタイ粉をお粥に入れると、香ばしく美味しかった。
午前 7時  朝ご飯を食べる。(おかゆと漬物)
 後かたづけ後、畑に行く。
午前10時  おかゆで少しおなかをふくらます。
午後12時  お昼ご飯
 農繁期の時は、家に帰りお昼のご飯を用意し畑に持って行き、畑での食事となる。終わると家に帰り、4ツ茶の用意し持参する。
午後 3時  4ツジャ 吹かし芋・芋かゆ・つけものなどをたべる。
午後 5時  帰宅。夕食の準備。
午後 7時  夕食。一家揃っての食事となる。
午後 8時  後かたづけ。朝食の準備をする。少し休憩。
午後 9時  内職。もしくは、家族のための裁縫などをする。
午後 11時  就寝。


全般
   喜連の地形は、東が高く、西に低く傾斜していて、西喜連の場合、アゲタ(上田)が少くなく、ほとんどが水捌けの悪い畑だった為に麦の栽培があまりされなかった。その為、米と麦と混ぜて炊くことは少なかった。混ぜても7:3であった。東は麦を植えた。麦を刈り取った後には、ジャガイモや野菜を植えた。
 地形は、北の方が高く、北側は、北池の水を引いた。南側は、墓地東横の南池の水を利用した。中喜連及び西喜も南池の水を利用していた。北池の水は、五十間樋よりの水である。
 春になると、田植えの準備で苗床をこしらえ、川から跳ツルベで水を汲み上げ苗を育てた。
田植えの準備として、畑には水を張り、牛に重石を乗せた板を引かせ、平らにした。当時には、2~3軒で牛を飼育し順番で使用した。女子や子供は、学校から帰ると、押し切りで藁を切り、牛の寝床の整理とえさやりが仕事だった。後には、牛から耕運機に変わる。
 アゲタの畦に水もれを防ぐ為の新しい畝作りがなされる。その畦には、枝まめが植えられる。田植えは、朝から夕方まで、中腰での作業で大変身体に負担がかかった。昭和50年中頃、田植え機が導入され、少し後で、コンバインが使用される。
田植えが終わり、晴天がつづくとアゲタに朝・昼・夕と水を入れるのが仕事となる。水車で大きな畑に水を入れるのは、大変な仕事である。昭和30年後半になると、バーチカルと言うポンプと発動機で水を入れるようになり楽になる。昭和40年になると、住宅が増え、生活廃水が多くなり用水路の水質が悪くなり、新興住宅の近くでは、ガラスなどの廃棄物が畑に捨てられて、だんだんと畑が出来ないようになっていく。
 水路も埋め立てられ、道路となるため、田畑には、昭和40年後半には、農業用の共同井戸が設置される。これは、電気でポンプを動かすため、電気代は使用者の数で、分担した。この井戸は現在でも使用されている。
田の中には、雑草がはえてくると、田がき(草さとり)が仕事となる。日中の仕事で、きつい仕事で、子供は、学校からかえると田に行かされた。後には、殺虫などや除草にも農薬を使用するようになる。
稲も大きくなる頃、畦の枝まめも大きくなり畑の帰りになん本か引き抜き、茹でて塩を振り掛け、美味しい子供のおやつやおつまみになる。
 稲が実る頃になると、雀から守る為に、当番で、雀を追い払う為、昭和20年代までは、許可を得た人が、猟銃で、空砲で雀を追い払っていた。時には、筒の中に石を入れて撃っていた。それらも有り、銃で追い払うことでの許可が下りなくなった。それから後に、大きな竹筒(直径15cm位・長さ1m 位)に、カーバイトを入れ、手元の穴に水を垂らすと白い煙が出てくる。それに、マッチで火をつけると大きな音で爆発する。その音で、雀を追い払う。これも、昭和40年初めには、しなくなる。
 稲刈りは、束ねる藁を腰に、刈ったらその場で束ねる。束ねたら、刈るの繰り返しの作業となる。それを、だてあし(竹で両サイドに足場を作りそこに、長い棒を架ける。その真ん中に、倒れないように筋交いの竹を2本くくりつける)に束ねた稲穂を交互にずらして、架けていく。これで、乾燥するのを待つ。途中で、台風が来た後は、だてあしが倒れ、それを引き起こす作業は大変で、それを怠ると、水分を含んだ稲穂から新芽が出てきて、駄目になる。畦豆も引き抜きダテ足を組んで乾かす。乾いたら
家に持ち帰り、棒の先が1m位で回転するようになった棒を振り上げ、豆をたたいて
 豆を取り出す作業をする。その豆の一部は、自家製の味噌に仕込まれる。
 泥田の為に、稲コキの場合に足場の良い所(脱穀機の所)まで稲を運ばなければならないので、ダテアシは一本ずつ組んだ。運ぶ時は、真ん中の縄をはずし、そこに肩をいれて担ぎ、運ぶのが一般であった。稲コキの後の藁くずを、畑で燃やしていたが昭和30年後半には、消防署から注意されるようになる。
 畑には、水路が多く巡らされ水路にはザリガニ・小フナ・ドジョウなどが多くいた。子供は、畑仕事よりザリガニ取りに夢中になった。梅雨時や大雨が降ると良く、道が冠水し、路に鮒が泳いでいる時もあった。冬場になると、小さい水路は水が無くなりドジョウが土の中で冬眠する。そのドジョウをとりに業者が取りに来ていたときもあった。稲刈り後の畑には、野鳥が多く飛来しその鳥を撃ちにハンターが来た時もあった。獲物は、殆ど野鳩だった。
 農繁期が終わると、溜め池の水が抜かれて、掃除される。その際に、池の魚が取られ、小魚などは、水利組合員などに分けられる。その小魚は、畦に植えた枝豆と昆布小芋と煮られる事が多かった。
 当時は、庭には、鳥小屋があり鶏が飼われていた。急な来客の場合などには、それらは、食卓に上がる事になった。
 畑の一部には、スイカ・マッカ(マクワ瓜)・砂糖キビ・トマトなどが植えられ、畑仕事での美味しいオヤツになった。特に、マッカは、甘いので喜連の特産品として有名で、市場では良い値段で売買された。戦後でも,木津市場まで運んで売っていた。
東部市場が出来てからは、ねぎ・白菜・ほうれん草など専業で栽培していた農家や、他に、余剰で取れたものを売りに行った。
 昭和20年前半までは、綿が栽培している所もあった。喜連には、東側と平野の間には、綿が沢山植えていた様である。正月には,柳の枝を切って、その枝に餅をつけて餅花にして、豊作を願った.これも、昭和30年後半にはしなくなる。


<日常の生活>
 平野の大阪紡績の工場には、喜連から多くの人が働きに行った。
 夏場には、井戸でスイカを冷やした。井戸水は飲料にはしなかったが、洗濯や植木や庭への散水に使った。昭和30年初めには、まだ井戸水を使用している家があった。その水は、そのままでは使用できない。喜連の井戸水のたいていは、金気があり、水も赤茶色をしていた。この水を使用している家は、浄水器(甕の中に炭・棕櫚・砂等)
を通して使用していた。
 当時の洗濯は、井戸端でタライで洗濯板で大きな洗濯石鹸を、洗濯物にごしごしと摺って洗っていたが、昭和30年前半に電機洗濯機が発売されて、次第にこちらに変わる。水を絞るのは、今のような自動脱水機のような物でなく、ゴムローラの間に洗濯物を入れてローラの圧力で水を切るものだった。
 ご飯を炊くのも、ヘッツイさんでご飯が炊けるまで目が離せなかったが、ガスが引かれて、ご飯やおかずを作るのも楽になる。ガス炊飯器も発売され女性の家事は楽になる。電気釜は、タイマーでご飯が炊けた。冷蔵庫は、上下に2ツの扉があり、上の段には氷を入れる。氷は、朝に氷屋が、売りに来る。氷の冷気だけのもので、夜には氷は解けていた。上の段は、開けない方が氷が長持ちした。昭和30年に入ると、電気冷蔵庫が使用されるようになる。


<喜連の風景>
 全体的な風景は、現在の南港通りは、今のように広く無く、自転車が二台すれ違うのがやっとの幅で,喜連村の外周の堤(高さ2m位)で人どうりも少ない所で、ススキが多く生えていた。この土手は、喜連の東・南・西に残っていた。平野との境界の旭園の所は、土手は一部なかった。村の西に出ると、人家は無く,北側は、旭園の人家が少しあるだけだった。東は、東口地蔵を過ぎると、東喜連まで、人家は無く,喜連の墓地があるだけだった。今の様に、喜連東までは人家はつながっていなかった。
 昭和30年後半には、環濠の濠が埋め立てられ、新しい道へと整備される。旧村の中に流れていた生活用水排水の溝も、埋め立てられ細い道が広がったり、新しい路地が出来る。
昭和30年中位には、南の堤の上をバスが走る道路となつていた。昭和40年には、今の西池交差点に、瓜破プールが出来、学生達で賑わった。しかし、5年位で、現在の道路幅に拡張され、プールの半分以上は、道になった。この頃から、急激に、周りの土手は、無くなり市営住宅の建設も加速され、40年中頃から西の方に建売住宅が多く販売され、田園の風景は消えていく。東の方も同じである。
平成になると、喜連の旧村の中の家が売りに出され、分割されて、建売住宅と変わり、昔の町並みがなくなり、風景も一遍する。楯原神社の西側も、平成12年には、旧家が取り壊され、後に分割され、建売の家が建ち並ぶ風景となる。


市営住宅
 昭和32年に喜連4丁目の旧村に隣接して低層の市営住宅(平屋)が建設された。当時は、市営住宅が人気があり、我孫子・淀川の住宅の入居の抽選の倍率は高かった。
 抽選会場で初めて喜連住宅を知り申し込まれた方が多かった。なぜなら、知名度あまり無かつたのと、交通の便が不便(バスの便しかなかった)だったので、競争率が高くなかったので早く入居したい人は申し込んだ。申し込みした人の大体は入居できのではないかと思う。
 この住宅には、当時の港区の人々も多く申しこまれた。当時の港区は、雨が降るとすぐに冠水するので困っていた。その人達が喜連に移住して来たとも言われている。
この住宅の西側は何も建物が無く、阿倍野の近鉄百貨店の建物が見えた。矢田の現大阪芸術大学付属短期大学の円形校舎が見えていた。内風呂が設置されていないので、銭湯に入りに行かなければならなかった。部屋は台所・便所・畳部屋2(4・5畳と6畳)の2DKだった。
 昭和30年代を境に喜連は住宅建設のラッシュとなる。小学校の東側に同じ市営住宅が建設され、西側には、建売住宅が建てられていった。その市営住宅も老朽化し高層住宅に平成3年頃から順次立替工事が始まる。高層化に伴い工事中に、近くの市営住宅に、仮移住し、完成と共に新築住宅に帰ってきた。喜連西の住宅も高層化になり、喜連に仮に住む人が来た。新しく出来た住宅に帰らなくそのまま住みつつける人も居た。
 現在建設された高層住宅には、従来の住人と同じく立替の為に一時入居に来ていた瓜破・喜連西の住人達がほとんどで、新たな入居者は少ないとの事.月に1度は、住人達で清掃作業をし,住人達のコミ二ケイションを図っている。


<出産>
 1週間位前に実家に帰り、出産の準備をする。実家では赤ちゃんのオシメや出産時の用意を整え、いつでも対応できるようにする。
 産気が始まると、東喜連の岡本さん(産婆)を呼びに行き、出産をする。
胎盤などは、大阪市より引き取りに来た。
 昭和30年代は、病院で出産し、産湯は、産婆さんにお願いしていた。
 7日目に宮さんにお参りに行く。


<葬儀>
 役は細かく分担されて、村総出で死者を送り出す感がある。
 通夜・精進明けについては、隣組の女性達で炊き出しが行われる。おにぎり・煮しめ(揚げの煮た物・小芋・ひじきなどの煮物など)お酒などが振舞われる。 
 役分担としては、沐湯・町蝋燭・先火・導師警護・丸提灯・(子供が担当)・盛物持
・ 線香持・蝋燭持・輿・輿警護・代わり輿・樒持・鐘持・花持・顔附・炊事方・内手伝・軒送り・顔付けなど
村の葬れん道を通り角々に、竹に線香を立て、斎場まで輿を運んだ。道は、中小路・南条を通おった。棺桶が家を出ると、死者が生前に使用していた茶碗を門前にて割り、死者が家に帰っても食べる事が出来ないから、帰ってこないで成仏するようにとの願いがあった。
通夜で、読経の後に詠歌講の人たちにより、西国33カ寺の詠歌を2時間あまり
行う。長時間なので、途中で砂糖湯などを振舞い、休憩して後半を読み上げる。平成初期には、たまに行われたが、最近では、行われなくなった。しかし、亡くなった人の要望で行われる時がたまにある。
葬儀が終わり出棺の後、子供達に岩おこしを配った。後には、お菓子のセットとなる。昭和30年後半には、あまりしなくなる。現在は、葬式式場で行うようになりお菓子などは、配らない。葬式も、隣組で行う。初7日なども、葬式が終わり、骨揚げの後、同じ式場で行うようになっている。


<同行>
 喜連では、戦前まではあったようで、戦後には、無くなっている。
葬儀は、隣組が取り仕切っていた。葬儀会社は、ある特定の業者を使用していた。


<屋号>
 しばや   あぶらや  あんまそう  ばばく   酒屋   魚一


<楯原神社>
 昭和22・23年までは、西・中・北の3町会で持ち回りで、しめ縄を奉納していた。自前で作れないところは、買っていた。当時では、¥300,000円していた。それから以降、喜連全体で12月25日に奉納するようになる。平成5・6年より12月23日が休日の為,23日に奉納される事になる.喜連全体が集まる唯一の行事となる。


<十種神宝>
 神宝は、小林家が古道具屋で買い求め、自宅で祭っていたが、当地を出るにあたり浅井家に預けられた。それから、増池家に預けられた。当家で祭られていたが、長く祭ると、良くないとの事で、宮さんに奉納することになる。後に、奈良県の石上神宮の神宝と判り、返すむねを石上神社に連絡したが、どちらでも良いような感じだった為、返さないで祭ることになる。第一室戸台風によりこの社が壊れ、大徳(大工)が。住吉神社に赴き、この神宝に合った建物を教授され、神殿を建てこれを祭る。それまでは、コモを敷いて祭っていた。それを、暗闇で御祓いを行い社に収めた。
御神体の十種の神宝(とくさのかんたから)は、金属と布で出来ており、現物は、神宝なので見ることは出来ない。
 楯原神社の釣鐘は、戦前は、鐘楼があり、昼時には鳴らしていたが、戦中の梵鐘供出により降ろされ、鐘楼は取り壊され放置された。しかし、梵鐘は引き取られる事なく残った。その為、梵鐘は撞かなければ絵馬堂が大丈夫との事で、吊るされる事となった。戦後、隣の如願寺が、この梵鐘を寺に移そうとの動きがあったが、梵鐘に楯原神社の名文がある事がわかり神社に残される事となった。


<八坂神社>
 昭和26年までは、楯原神社に合祀されていたが、この年に八坂神社に分けられる。この神社には、神主が常駐していない為、楯原神社の神主が兼務した。祭りには、楯原神社の日にちをずらして対応していた。社殿を改築したのをきっかけに、平成12年より川辺八幡神社の神主が祭事を兼務することになった。


西池
 西池の半分を昭和初期に、埋め立てた。その埋め立てた真ん中に瓢箪池があつた。
現在は,西池善法寺となっている。
その埋め立てに関し、若い人夫が2〜3人死亡した。それが、祟りとしてうわさされた。その埋立地には、葦がビッシリ生えていた。その中に小さなお稲荷さんの社があつた。その社にお参りに行く細い通路が地面のまま続いていた。その、雰囲気に、ここに大蛇がいるとの噂が立った。実際には、大蛇はいなかったが、この葦原に、大蛇が体をくねらして進むように葦が揺れ、倒れる事があった。大蛇が現れたと思ったのが、イタチの大群で、列をなして進んでいたのだった。これを見た人が、大蛇が居るといったのかもしれない。 
 ここには、昭和20年代には、きつねが住んでいて、その泣き声を聞いて、夜中に便所にいて怖くて出られなかったとの笑い話がある。狸も法明寺に住んでいて、近くの家に入ってきたこともあった。
 喜連の南北の入り口には、ガラ箱(2m:四方)が在り、砂利が入れてあり、雨の時、道がぬかるんだ時にこれを撒いた。


村役場その他
 現在の、喜連小学校の敷地の北西にあった。1番地 村長・収入役各1名・書記2名 計4名。駐在巡査 1名 平野郷警察分署に属す。
小学校は、役場の前に平屋で1年から3年生の教室があり、後に、北東に1階に講堂・理科室・2階は、4〜6年生の教室の新校舎が建築された。 運動場の南側に保安庫と呼ばれる立派な建物があり、そこに教育勅語が入れられて入れ、当時の校長は、正装でこれを出して読み上げた。
 学校の南側は畑で、軍隊の演習の時には、軍馬が沢山や柳につながれていた。1〜3年の平屋の教室の南側は、樫の木が在り、下草に蔓草などがはえ、子供達は、習字の時にこの草を入れて摺ったそうで、それを入れると粘りが出たそうである。その後ろが、交番があり、道に面し借家があり、3〜4軒住んでいた。昭和20年代に、学校敷地拡張にこの借家と茂みは取り払われる。
 この広場で、相撲が行われた。地相撲で、河内13組として行われた。役員善意員で桟敷を区で、むしろも全員の持ち寄りでおこなわれた。観客が多く途中で桟敷が壊れるというハプニングもあった。これが喜連で行われた第1回であつた。二回目は、昭和30年後半に、現在の喜連4丁目の環濠埋め立て地と広場で行われた。この場では盆踊りも行われた。


井戸
 井戸の深さ 1間及び2間。大正3年 235箇所。水質良好のもの無し。漉して使用できるもの 43.沸騰して使用できるもの 1.不可のもの 191.
基本的に鉄分が強くほとんど飲料には適さなかった。


ダット橋
 現、長居公園通り喜連住宅前の所、喜連と瓜破との境に在った幅2〜3m位の川に架かる石橋。その東横には、ガラ箱が在り、道がぬかるんだ時にこれを撒く。元は、楯原神社の所有地だったが、戦後の農地改革により、辻浦氏の所有地となる。この橋のガラ箱の所に、石碑があり、現在、辻浦氏所有の地に建っている。この妙見の碑は、昔からあったようであるが、現在の碑は新しく創建されたもの。
 昭和20年頃には、大変寂しい所で、追剥ぎが出た所でもある。東西に走る堤道は、ススキが生い茂り、狐などの動物もいたと言う。当時は、この付近を、通るのは女の人は大変怖かったと言う。
場口地蔵は、元はこの橋たもとに鎮座していたが村人で祭るとの事から現在の場所に移動した。


学童疎開
 低学年は、強制的に疎開はされなかった。小さい子供は、親元が田舎にある子供は、そこに行った。高学年は、島根県邑智村に疎開した。当時の子供から親への手紙は早く家に帰りたいと訴えるものが多かった。それと、食べ物が不足だったために、現地の畑の、柿を取ったり、青い梅など食べられそうなものを口にした。草も食べたそうである。後に、これが原因で身体を壊したり、死んだ人も出た。家が恋しくなり、駅まで逃げて家に帰ることを実行したものもいたが、駅でつかまり引き戻され、ひどく叱られた。


遊び
(男)
 バイ(ベイゴマ)・たこ揚げ・べったん(メンコ)・ビー球・魚とり(実益を兼ねていた。)
 馬乗り・釘さし・陣とり・探偵ごっこ・飛行機とび・はさみ将棋・水面石とばし
 しけい・せみとり・陣地つくり(隠れ家つくり)
(女)
 ままごと・おはじき・縄跳び・ゴムとび・缶けり・おにごっこ・とうよみ・靴かくし・草きり・ハンカチおとし・はないちもんめ・あやとり 


正月
 原則には、この日には、他の家の訪問はしない。
 暗いうちに(4~5時位)に起きてお祝いをする。一人ずつのお膳に煮物(高野豆腐・椎茸・小芋・棒たらなど)・焼き魚・雑煮(丸餅・大根・にんじん・ごぼう・小芋・豆腐など)具は豆腐以外は、切り口は丸い形をしたものを入れた。
おせち料理(ごまめ・酢レンコン・ごぼうきんぴら・数の子・黒まめ・こんにゃく・高野豆腐・ぼうだら・かまぼこなど)中央には、にらみ鯛。そして、お神酒。
お神酒は、家長が家族に注ぎ、家内健康を祝詞氏、その後に料理に箸をつけた。
 赤飯は、一口残し、そのお膳は、昼たべるとかたずける。このシキタリも今では、している所は、ほとんどなくなった。
 着物を着て、氏神(楯原神社)を参り、その後に住吉神社に参る。翌日2日に、身内の者が訪れて、花札などをして遊ぶ。料理は、すき焼き・鍋もので皆で食べる。昔は、肉などは食べなかったが、最近は、お正月料理も二日たつと、肉料理などの洋風の
ものも食べるようになり、特別と言うことがなくなりつつある。
 喜連は、家ごとにより、正月料理は家庭により異なる。元旦に、白いご飯、お雑煮
で、白ミソ仕立てもあり、すましもある。お嫁さんの実家での良い風習が取り入れられ新鮮な思いをした事がこの家の行事となることもあった。
 正月に来客の料理は、おせちと、すき焼き・鍋などをする。その為、材料の野菜を沢山買いだめする必要で、年末の買い物は大変だった。
 最近は、スーパーマーケット・コンビニなどが営業していて、正月用として買いだめをしなくなった。おせちの補充も、ここで買い足せることで、無駄を無くすことが出来るため多くの量を作ることもなくなる。昔では、大変なご馳走だったが、普段の食事の方がご馳走となり、正月料理も2~3日で終わる。気候も暖かく昔と比べると腐りやすくなった為もある。
料理も、煮しめ中心から、洋風のローフトビーフ・焼き鳥などが加わりバリエーションも増えている。鯖のきずしを食べる所もある。正月の特別という料理のものより、普段の食習慣が喜ばれるようになってきている。


「お礼参り」・「鍬はじめ」
 旧暦正月二日に、朝早く自分の田・畑に行き、明けの方に向かって「おめでとう。今年も田(稲)は三石、綿は三百五十(斤)取」ととなえ、三鍬ずつたやがして、お神酒を田・畑に注ぐ(供える)。同じく綿花の良い噴出しを願うために、綿作農家が正月に飾る餅花とともに、豊作の祈りを込めた行事もあった。
 喜連は、「一反歩の米は三石粗米なし、麦は二石、岸豆一本腐はなし」と言った。昭和20・30年には、綿作りより麦・大豆作が主流だった。餅花は、20・30年代にはまだ作っていた。乾燥して落ちた餅は、ホウラクなどで炒って食べた。
現在では、これらをしている家は皆無である。


<吉村武右衛門>
 藤原鎌足を始祖とする藤原氏の出で、北家坊門流の末葉として文禄元年に生まれる。大阪冬夏の陣に於ける、大阪方先鋒の一将として、元和元年五月六日、大和口先手総大将の又兵衛基次に従い、平野の陣所を出発し、藤井寺誉田を経て道明寺から、石川を渡り玉手山にて、大和より来る徳川軍を迎え撃ったが、多勢に押され、大将の又兵衛基次が戦死し、遺言によりこの首をこの地に埋め、決する所あり、潜かに戦場を離れる。武右衛門は、摂津国喜連村の知人を頼り武士を捨て、名も水井佐兵衛と改めて、喜連村に潜居下。この時は、24歳の青年であつた。
 寛文元年(1660年)中喜連に蔭涼庵なる、禅寺を建立し、伊予国松山の天徳寺翁和上を勧請開祖として、大坂の陣戦没者の冥福と、子孫繁栄を祈願した。彼は、慈悲心篤く、河内国瓜破村城山の辺りに、小川があり、往時降雨期に往々橋脚が流失し、行路
者里人の難渋するのを見兼ね、自費で架橋をした。篤農の人として敬慕された。なおこの橋梁の跡が近年まであった。蔭涼庵は、後に河内国長野千代田村の松林寺の法巌智範が中興し寺名を浄和寺と改め幕末まで現存していたが、明治の廃仏毀釈により廃寺となり仏像仏具等は松林寺に移した。境内地所寺建物を売却し、その代価は、喜連村用水樋字五十間入樋修繕費に充てた。現在は、住宅として使用されている。
 吉村武右衛門三百五年祭供養碑が昭和五十三年四月吉日 水井恒雄氏により当時の柏原市長立会いのもと建立され、現在も玉手山の上にある。


寺関係
福田寺  元和8年創建  火災により消失。明治4年廃寺となる。
法性寺  大永年中(1521~28)創建 宝永7年(1710)再建昭和55年までは住職が在籍していたが、それ以後不在となる。それ以後東喜連の伝了寺の住職が兼ねる。以前は檀家は100軒あったが、現在60軒ほど。
 現在、寺総代などの役員3~5名を本山に登録することを求められているが決まらず。年行事の役員が運営にあたる。 
楯原神社  長真若中女姫の碑
   現喜連4丁目の廣住塚に在ったもので、大正時代に環濠浚渫の際に見つかり息長真若中女姫の刻  字があったので楯原神社に移される。

 隕石の石
   素性は不明。一説では、弘法太子の腰掛の石であると言われている。



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